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インタビュー2009-10-02

「ジャズ喫茶マサコ」閉店
オーナーが語る、下北沢の昔・今・これから

 56年間にわたって下北沢の街で営業を続けてきた「ジャズ喫茶マサコ」が9月24日に閉店した。常連客だけでも1千人以上。数多くの有名人も足繁く通った。青春時代に同店に通い、その後、妻や子ども、孫を連れて来店する客も多かったという。閉店について、オーナーの福島信吉さんは「仕方がないよね。時代の流れだし。もう、年だしね」と笑う。初代オーナーの奥田政子さんがオープンした同店に高校生のころから通い、その後オーナーを引き継いだ福島さんに、下北沢の今と昔を聞いた。

1953年「ジャズ喫茶マサコ」オープン

―そもそも、なぜ、下北沢に喫茶店を出すことになったんですか?

福島 初代オーナーの奥田政子の考えです。政子は銀座でダンサーをやっていて、ジャズが好きでした。当時はジャズ喫茶が流行っていたんだよね。「小銭がたまれば喫茶店を開く」という夢を持つ人も多かった。大げさに言うと、喫茶店を開くのが一種のステイタスというか。それで、新宿にも渋谷にも近くて地の利がいい下北沢がいいなあと思ったみたい。しかも、当時は値段が安かったからね。銀座に比べれば田舎だったから(笑)。

―福島さんが「マサコ」に通うきっかけになったのは?

福島 当時、わたしは高校生。今の高校生がマクドナルドに入る感覚で通っていました。自宅は自由が丘で、学校は高田馬場だったのだけど、小田急線沿線に住んでいる友達に「面白い店があるから」って誘われてね。

―当時(昭和28年)はどんな時代だったんでしょうか?

福島 喫茶店ブームで、あちこちに喫茶店があった。高校生が通うのもそう珍しいことではなかったと思います。ジャズ喫茶、純喫茶、歌声喫茶、クラシック喫茶、美人喫茶、いろんなのがあった。

―美人喫茶!?

福島 そう(笑)。風俗的なお店ではなくて、本当に美人な従業員がいる店。ちょっとコーヒーが高かったかな。

―そのころの下北沢は? 

福島 大学生や若いサラリーマンの下宿屋が多かった。家賃は5,000円くらい。カレーライスが50円、コーヒーが60円の時代だから。圧倒的に男性客が多い街だったから、若い男向けの定食屋が多くて、今みたいに古着屋とか雑貨屋はなかったですね。今、南口商店街のミスタードーナツがある場所は日本そば屋で、その隣が八百屋、その隣が本屋だった。南口駅前のマクドナルドは「代一元」というラーメン屋。当時は映画館が4館ありましたよ。

―演劇の街ではなかったのですか?

福島 それはもっと後の話。茶沢通りにある交番の前のスポーツクラブが「オデオン座」、北口のゼンモールが「北沢劇場」、今のみずほ銀行の裏手には「グリーン座」、その隣も「北沢エトワール」っていう映画館だった。そのころのことを知っている人は、もう少ないけどね。


「ジャズ喫茶 マサコ」が流行った理由

―ところで、政子さんは、どんな方だったんですか?

福島 店を開いた当時、29歳くらい。わたしより12歳年上だから、あこがれのお姉さんみたいな存在だったのかな。常連は当時から多かった。明るくて気さくで、何に対しても積極的な人だったから、モテたと思いますよ。

―どういういきさつで共同経営者に?

福島 大学生になってからは梅ヶ丘に越してきたこともあって、週に5日は通いました。大学を出て、自動車会社でサラリーマンをやっていたけど、しばらくして自分は組織向きの人間じゃないと悟って。政子が「じゃあ、うちで働かない?」ということで、共同経営者になりました。東京オリンピックの数年前です。通い始めて10年経ってたね。わたしは料理が好きだから厨房を担当することになりました。

―なぜ、多くの常連客の中で声がかかったのですか?

福島 まあ、お互い、男と女という仲で。そういうことです(笑)。最初は付き合っていたことは内緒だったけどね(笑)。

―共同経営になると、何か少し変えようとかいうことはなかったんですか?

福島 全然。政子の主導のままに。それは政子が亡くなってからも同じで、雰囲気も経営方針も変えなかった。どんな経営方針があったかというと、大きな特長としては、当時ジャズ喫茶というと、私語禁止のところが多かったけれど、うちは私語自由だったことことかな。

―ほかにもポリシーはあったんですか?

福島 従業員はとにかく美人が多かったですね。さっき美人喫茶の話をしたけれど、「マサコ」もそう呼ばれていた。政子が女の子の面接をしていたけれど、募集をかけなくても応募してくる子が多くてね。当時(昭和30年代)は、ノーブラでおしゃれなランニングにホットパンツ、ハイヒールというような格好で働く喫茶店の女の子もいた。「マサコ」の従業員もそういう格好でしたよ。みんな、スタイル良かったよ。結構セクシーだったんじゃないかな(笑)。

―じゃあ、本当に人気があったんですね(笑)。

福島 そう(笑)。当時の営業時間は朝9時から夜12時までだったけれど、開店すると、すぐいっぱいになっていましたね。

―最もお客さんが多かったのはいつごろですか?

福島 昭和40年代の末から50年代にかけてですね。本多劇場ができて、演劇の街と言われ始めたころ。女性のお客さんも多くなったよね。

―56年という長い間、店を続けてこられた秘訣(ひけつ)は?

福島 雰囲気が自由だったことに尽きるのかな。それに、いつ来てもあんまり変わってないから懐かしがって来てくれる。お客さん同士で結婚する人もいたりしてね。でも、一番は家賃の心配をしなくて良かったこと。喫茶店は単価が安くて回転も少ないから、なかなか商売にならないからね。

老舗「マサコ」にも押し寄せる時代の波

―今回の閉店については…

福島 時代の流れですかね。この土地を買い占めるという会社があって、うちだけ一角残すのもね。わたしももう73歳にもなるし。

―常連客の反応は?

福島 そりゃあ、反対運動をやろうとか、いろいろ言われました。政子が亡くなった25年前も閉めようとしたら「やめないでくれ」と言われて、当時はわたしも48歳だったから続けられたんだけど。60歳で終わりにしようと思っていたら、あっという間に73歳になってしまった(笑)。

―さみしいですね。

福島 12年働いていた女性従業員に名前を継いでもらって、下北沢から遠くない別の場所で店を出す予定があります。物件を探しているけど、下北沢は今、高いからなかなか場所が決まらない。
 
―福島さんはそのお店でもオーナーを?

福島 いやあ、もうわたしはノータッチ。自由にやってもらうつもりです。店のレコードやCDやスピーカーは持って行くみたいですね。

―しかし、感慨深いですね。

福島 常連客の顔は覚えていますよ。よく、みんなで競馬に行ったりしましたよ。ここで、勉強して、裁判官や弁護士になったやつもいるし、相変わらずフラフラしているやつもいる。常連客は何千人っているんじゃないかな。

―「マサコ」のファンに一言お願いします。

福島 長いこと、「マサコ」を育ててくれてありがとうございました。それ以外、ないですね。本当に、ありがとうございますだけ。本当はね、60でやめて旅行でもと思っていたけど、いつの間にか70になっちゃってた。これからはゆっくりします。それで、「ニューマサコ」ができたら時々は顔を出す。ちゃんとお金払ってね。やっぱり、どうなっているかは気になるからね。

―それじゃあ常連さんも、また福島さんに会えるんですね。

福島 ええ。たまになら。でも、「マサコ」はとりあえず、ジ・エンド。後悔はありません。

これからの下北沢に言えること

―最後に、今の下北沢にメッセージを。

福島 チェーン店が増えて、だんだん面白みがなくなったよね。深みがなくなったと、何となく肌で感じます。昔は個人経営ばかりで、みんな、店や街に対する思い入れが強かった。今は売り上げ第一で、ゆったりと商売している感じじゃないでしょ。繁栄してもらえるのに越したことはないけど、下北らしい店も増えてほしい。もっと居心地のいい店。店長がしょっちゅう変わって、下北沢を全然知らない店長ばかりになって、営業第一になる。自分の店だけがもうかれば…という考え方になる。それは悲しいよね。

―「下北らしさ」を保つには…。

福島 もう少し家賃が安くなってくれれば、下北に愛着ある個人の魅力ある店が増えるんじゃないかなあ。でも、頑張っている店もちゃんとある。人情も残っている。老舗のうなぎ店「野田岩」、とんかつ店「かつ良」とか。これからも下北沢を応援していきたいですね。

<プロフィール>
福島信吉(ふくしま・のぶよし)さん。1936年生まれ。高校生の時から、「ジャズ喫茶 マサコ」に通う。常連になって10年、初代オーナー奥田政子さんの勧めで共同経営者に。1984年に政子さんが亡くなった後、後を継いだ。下北沢でもっとも有名な喫茶店、下北のシンボルとして、全国にファンを持った。俳優の西田敏行さん、柄本明さんなども通ったという。同店2階に住居を構えていたが、今秋転居予定。

(文責:佐藤智子/下北沢経済新聞)

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